企画展レポート2- 草津町とハンセン病の歴史をたどるフィールドワークに参加して/パク ミンジョン

 戦前、ハンセン病患者が集まり暮らしていた、今はなき湯之沢地区を案内してくださると聞き、「草津町とハンセン病の歴史をたどるフィールドワーク」に参加してきました。
 草津町の一画にあった湯之沢地区は湯治に集まったハンセン病患者と彼らを支える産業が一体となり、やがて行政にも認められた自治集落として発展した他に類を見ない町でした。1931年、癩予防法が制定され、隔離対象が放浪患者から感染のおそれのある患者へと拡大すると、居場所を失った患者が更に集まり、湯之沢は最も繁栄します。その後も湯之沢は多くの患者を抱えていましたが、1941年、国の方針によりついに解散に追いやられ、もはやその痕跡はほとんど残されていません。今までいくつかのハンセン病療養所施設を訪問する機会はありましたが、今回は記憶の中にしか残っていない「場所」を訪れるという点でとても期待を寄せたフィールドワークです。
 当日はあいにくの雨でしたが、集合場所の町役場前はにぎやかな雰囲気でした。出発前に配布された参考資料には、現在の地図だけでなく昔の絵図や文献や史料からの抜粋なども含まれていてとても役に立ちました。参加者12人に対して案内してくださる講師が3人という至れり尽くせりのツアーだったと思います。
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光泉寺から湯畑方面

 まずは草津町立温泉図書館の中沢孝之さんの案内で町役場を出発し、光泉寺を通って湯畑の方へ向かいました。光泉寺は大きなお寺ではありませんが日本温泉三大薬師と言われているそうです。お寺のある高台からは湯畑を見下ろすことができ、近くで見るのとはまた違った雰囲気を味わうことができました。湯煙の立つ景色を見ながら階段を下っていくと白旗の湯にたどり着きます。ここはかつて御座の湯があった場所です。明治の頃の記録によるとこの御座の湯は二つの浴槽に分かれており、その内一つはハンセン病患者専用で四方に塀をたて中が見えないようになっていたとされています。この塀は他人に見られたくないという患者側の希望によるものだそうで、当時の草津におけるハンセン病患者の影響力がうかがえる場所でした。
pm4 ホテル高松の坂から大滝の湯を望む

 湯畑を通り過ぎてその先の旅館街を進んでいくと少しひらけた通りに出ます。煮川の湯、ホテル高松の駐車場辺りが目印でしょうか。ここから先が湯之沢地区だったそうです。湯之沢集落が解散に追い込まれたのは1941年のことなのでもう少し具体的な記録もあるのではないかと思ったのですが、解説してくださった専修大学の廣川和花先生によると、町の区域がここまで曖昧ということは逆に当時から双方の町が一つ繋がりのように日常生活圏を共にしていたことの裏付けとして考えられるとのことでした。草津町では、長期滞在するハンセン病患者を温泉の重要な顧客としていました。ハンセン病者の湯之沢移住後も、町とハンセン病者の生活は密接に関わっていたことが分かります。また、湯之沢で幼少期を過ごされた方のお話では子供の頃は町の境界などお構いなしに町中を走り回って遊んでいたそうです。
pm3 歌碑の解説

 次に向かったのは頌徳公園です。公園にはコンウォール・リー女史をはじめハンセン病と関わりのある方々の銅像や詩が刻まれた石碑が残されていました。草津聖バルナバ教会やリーかあさま記念館も公園に隣接していて、記念館ではバルナバミッションと草津の歴史について学ぶことができます。詳しい展示解説に加えて、当時の映像を交えた解説付きのビデオも見ることが出来るのでここを訪問するだけでも草津の違う一面に十分触れることが出来ると思います。また、予定にはなかったのですがフィールドワークの最後に湯之沢地区の住民だった方との懇談会が用意されていました。当時の町や生活の様子、思い出などを語っていただき、他では聞くことができないお話を直接伺える貴重な機会となりました。
 今回は「ハンセン病と文学展」という企画展の関連事業として企画された1回きりの催しだそうですが、今後より多くの方にこのルートが紹介されることで、ハンセン病に対する関心や理解を深めるきっかけにつながることを期待しています。

パク ミンジョン
東京大学大学院工学系研究科 建築学専攻博士課程在籍。 研究室のフィールドワークで長島愛生園に訪問したことがきっかけとなり、以来、国内外のハンセン病療養所を訪問している。療養所を一つの町として捉え、時代の流れとともに変化する居住環境に住民はどのように対応してきたのかをテーマに研究をしている。


ハンセン病と文学展
企画展「ハンセン病と文学展」 (2017年10月21日~11月19日) ‐終了‐


 

■「ハンセン病と文学展」レポート特集

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