「療治証文」とは何か? ―――江戸時代の医師がはたした「役」/海原 亮(住友史料館)
江戸時代の医師は、専門的な医の知識・技術を所有し、治療に役立てることを根拠に、社会のなかで独自の位置を占めてきました。
病気や怪我をした患者の治療をするのは職業上、当然のことですが、彼らには、さらに重要な役割が求められていました。それは、事件性の疑われる病人や怪我人を診察して、その具体的な状況を、担当部署(奉行所・検使など)へ報告することです。公儀=権力の治安維持に関わる公的な役であり、現代の医師がはたす機能とも共通しています。
ここでは「外療治証文写控書印帳并ニ容躰書」と名づけられた、一点物の史料(竪冊、全24丁)を紹介します(表紙、【図1】)。この史料は、筆者自身が約10年前に古書店で購入したものです。残念ながら、史料の来歴はまったくわかりません。
表紙の右下部に「花井脩斎」と名前がみえ、これが史料の作成者と思われます。花井は大坂山本町(【地図】)の町医(外科)で、市販の番付を確認すると、安政3年(1856)「当時町請発行名医大輯」以下、幕末期までの記録中に、続けて登場しています(【図2】)。
第1丁に、「外療ニ依而御公儀様へ断届ケ書諸書左写」と内題があります。続けて「古年より外科治療を多く手がけてきた。その中には役所へ提出した書類もあったが、火事に遭いそれらを失ってしまった。とりあえず少し残った分を書き写す」(筆者による現代語訳)と書かれています。この部分から、史料の性格を読みとることができます。
表紙に、安政3年(1856)辰2月写とありますが、史料に載っている合計20例の療治記録は、文政期(1820年代)から始まり、文久3年(1863)まで続きます。その概要は【表】に記した通りです。実際には、どのような感じで、記録されているのでしょうか。
たとえば、次に記事Cを筆耕してみます。
乍恐口上
一紀州若山湊上町井筒屋喜兵衛舟弥助船乗組之内利介・長右衛門右両人手負趣ニ而私江 療治頼参り候ニ付、早速罷出脉察仕候所、
右 長右衛門 右肘少シ下疵口弐分半斗、突疵一ケ所
左 脇下ニ弐分斗疵口突疵一ケ所
右 弥助 頭額カスリ疵三ケ所
左足承挟ノ穴ニ疵口弐分斗突疵一ケ所
右之通糸懸ケ膏薬打、主方四物加人参湯相用置候、右両人共気力慥ニ見へ候 得共、 急変之義難斗奉存候
文政二年卯十月 長堀清兵衛町 花井脩庵
紀州御船番所様
若山=和歌山の商家井筒屋が所有する船の乗組員、利介と長右衛門が怪我をして治療に訪れました。花井は、疵口を糸で縫い合わせ、膏薬を塗って、気付けのため「人参湯」を飲ませます。両者とも意識は確かだけど、今後の容体については予想がつかない、といいます。
この口上書は「紀州御船番所」宛てに提出されています。紀州藩の船を管理する役所、という意味でしょう。おそらくこの船が、和歌山から大坂にやって来て停泊中、ふたりは花井の治療を受けたのです。
それではなぜ、花井は、切り傷の治療結果を、このような書面に仕立て報告しなければならなかったのでしょうか。
注目したいのは、ふたりの怪我が「突疵」「カスリ疵」とあることです。たぶん互いに刃物を持ち出し、派手な喧嘩に及んだのだろうです。そのことは、史料中に記されてはいないのですが、事件性の高いケースと想像できます。ふたりは、和歌山出身と思われるのですが、大坂で治療した事実を、医師花井の作成する証文にとっておくのです。
そうすればもし万一、和歌山に帰った後、どちらかの容体が急変するなど、何がしかのトラブルが生じたとき、花井の書面を、証拠としてとりあげることができます。大坂では適切な措置を施し、命に別状ない状態だった、と証明するわけです。
それでは、次に記事Hを眺めてみましょう(【図3】)。
乍恐口上
一白髪町長岡屋久兵衛借家戎屋宗七義、首縊候由ニて療治之義、右丁内より申 参り、早 速罷出見請候処、身ニ少々温り御座候間、独参湯用候得共、通り不申、脉血人中三里 等へ灸治仕候而も相叶不申、相果申候、右相違無御座候、以上
亥八月四日 花井脩庵
東御奉行所
冒頭に「首縊(首吊り)」とみえるように、これは事件、不審死にあたります。当時は人命にかかわる出来事があると、亡くなった人の所在地、「町」を単位として、事後処理をおこなう決まりになっていました。白髪町は、現在の大坂西長堀地区、花井の居所からもほど近いところです(【地図】)。そこの借家人が自害したので、町に呼ばれたのです。
花井はさっそく現場に駆け付け、首を吊った宗七の容態を確かめます。幸いまだ体温があったので、気付けとして「独参湯」を服用させようとしますが、うまくいかず、灸治も効をなさないまま、宗七は命を落としてしまいました。以上の結果を、診察手順とともに書面に記し、大坂東町奉行所に提出したのです。
宗七の死は自害であり、事件性は認められませんでした。また、町の側も花井を迅速に呼んでおり、適切な対応が出来ています。このように、一連の対応に落ち度のないことを証明するため、医師の花井は書面を作成しなければならなかったのです。
最後に、もうひとつ記事Jをとりあげます(【図4】)。
乍恐口上
一山本町京屋治兵衛借屋男子小児捨子病気之趣、右丁内より申参り、早速罷出、脉察仕 候所、虫出痰甚ク早速参蓮加呉朱湯相用居候得共、養生相叶不申 候、此段御断申上 候、以上
弘化四年未八月 花井脩理女印
花井の住む山本町で起こった事件です。冒頭の表現は、いまひとつ判然としませんが、借屋の者が養育している捨子の男児、という意味でしょうか。その小児が病気になったと連絡があったので、駆け付けて診察し、処方しました。しかし、養生の甲斐なく、小児は亡くなってしまいます。
このような書面が作成された背景にも、当時の社会事情があります。すなわち、町内で捨子が発見された場合には、貰い親が見つかったり、あるいは捨子が成人するまで、町が責任をもち、養育しなければならないのです。その捨子が病気になったので、すぐ医師にみてもらう。残念ながら助かりませんでしたが、精一杯の対応をした。その事実を花井が書面で証明したことになります。
この記事は、宛て所が記されていませんが、おそらく町奉行所に提出したのでしょう。そして、差し出し人は「花井脩理女」となっています。
【表】前半の記事AからIまで、9例が文政期のものです。書き留めた主体について記載は省略しましたが、「花井脩庵」という人物です。年代から考えると、表紙にみえる「脩斎」の先代でしょうか。
いっぽう、嘉永7年7月の2例(記事KとL)は「花井徳三郎」による診察記録でした。この人物がやがて「脩斎」を名乗って、脩庵の跡を継いだものと推測されます。そして、興味深いことに、脩斎へ代替わりするまでのあいだ、記事Jにだけ「花井脩理女」という医師が、登場するのです。
花井脩理女とは、誰なのか。先代脩庵の妻かもしれませんが、「脩理」のことも正体がよくわかりません。おそらく脩庵から徳三郎(脩斎)へ代替わりするまでのわずかな期間、女名前の医師が、花井の家を一時的に継承したのではないでしょうか。江戸時代の女性の医師、その活躍については、ほとんど先行研究もみあたりません。
当たりまえのことですが、花井のような、ほとんど記録にも残らない市井の医師たちの活動も、江戸時代の都市の医療を形成する、重要なピースとなっていました。 私が偶然、入手した小さな冊子から、その一端をわずかながらにうかがうことが出来たことを、たいへん悦ばしく思います。
海原 亮 (うみはら りょう)
1972年(昭和47)、大阪府生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学、博士(文学)。現在、住友史料館主席研究員。専攻は日本近世史・文化史。著作『近世医療の社会史』(吉川弘文館、2007年)、『江戸時代の医師修業』(吉川弘文館、2014年)。
メッセージ:歴史研究の素材とする「史料」は、第一に、私が勤めているような、専門の保存機関で閲覧するのがよいでしょう。もっとも、世間には、未発見の史料もまだ数多く残されています。それらをきちんと整理するのは、歴史研究者としての重要な仕事です。けれど意外と(というか、かなり)面倒な作業だからか、あまり史料整理に携わらない先生方もおられますね。古書店で気に入った史料を「発見」して、あれこれコメントするほうが、ぜったい楽でしょうし。私は以前から、そういったやりかたが気にいりませんでした。古書店にある一点モノの史料は、たいてい来歴不明なので、判明する事実も極めて限られるからです。・・・とかなんとかいいつつ、今回、ここで紹介した史料は、まさに私が、古書店のカタログで発見し、エイヤっと「購入する」をクリックしたもの。載せていただいた拙文は、もちろん可能な限り先行研究の成果に倣って、きちんと実証したつもりです。史料からあらたに判明した事実は、とても面白かったのですけれども、どう考えてもこういったやりかたは、歴史学の王道じゃない。はっきり言って、邪道。そのことは、やっぱり強調しておきたいと思います。