伊東剛史/後藤はる美『痛みと感情のイギリス史』(東京外国語大学出版会 2017年)
伊東剛史/後藤はる美『痛みと感情のイギリス史』
(東京外国語大学出版会 2017年)価格 ¥2,808(本体¥2,600)
書籍紹介 /高林 陽展(立教大学准教授)
「痛みと感情の歴史」ときいて、まずなにを思い浮かべるだろうか。怪我をして痛い思いをすることだろうか。怒る、悲しむ、喜ぶといった、とめどもなくあふれる人間の気持ちだろうか。体罰や処刑の歴史だったり、あるいは憤死やうつ病の歴史だろうか。いずれにしても、すこし手に取るのをとまどう、ネガティブな話にみえるだろうか。この類のテーマにまったく関係がないわけではないが、『痛みと感情のイギリス史』のストーリーはそうはならない。この本は、痛みと感情の歴史が「書きにくい」ものだということを出発点としている。過去の人間の痛みと感情が「書きにくい」というのは、どういうわけだろうか。少し解きほぐしてみよう。
まず、「痛み」について。痛みは、きわめて主観的なものだと長らく理解されてきた。医学の側からも痛みを客観的なものにしよう、数値で計れるようにしようという試みはあったが、それでも原因不明の痛みというものはさまざまな人に語られてきた(現在も語られている)。きっとわたしたちの実感も同じだろう。となると、その歴史を書くというのは、とても難しく、ひょっとしたらおこがましいことでもある。痛みは、感じているその人の専有物なのだ。しかし、痛むということが表明され書かれ、他人へと伝えられるとき、それは単なる専有物ではなくなる。他人の痛みを想像し、共感し、分かち合う。あるいは、その痛みをやわらげる試みがなされる。つまり、痛みはそこで「生きられる」。その生きられた痛みこそは、個人の範疇を超え、家族へ、友人へ、医者へ、社会の人々へとひらかれ、その関係の中で意味をもってゆく。そのような「半主観的」な経験を歴史学はどのように記すのか。この本は、そうした実験的な試みである。
「感情」を記すことについても、歴史学は若干の困難をおぼえてきた。歴史とは、ながらく人類の英智の歴史、理性の織りなす歴史だった。そこでは、論理的な正しさが追い求められ称揚される。対して、感情はそうではない。感情は、唐突さが許され、必ずしも理屈が求められるわけではない。あのひとは感情的だねという言葉を考えれば、わかるだろう。感情は、理性の対極にある非合理的なものであり、歴史の対象からは除外されがちだった。さらに言えば、感情もまた主観的かつ個人的なものとされがちだが、それも実際には個人の領域にはとどまらず、他者との関係のなかへと流れこんでゆく。この本は、その流れ出すところをとらえてゆく。
こうした歴史からは、人類がそのからだをどのように考えたのか(身体観)、こころというものをどう理解していたのか(精神観)がみえてくる。からだやこころの仕組みを知りたければ、医学の本を読めばいいんだ。心理学の本を読めばいいんだ。そのように言うこともできるだろう。今日の科学に頼れば答えはみつかるということである。この本では、ただちにそのようには考えない。過去には、いまと異なるからだとこころのとらえ方がある。様々な地域ごとにもある。いずれも、そのときその場所では正しいと、当時を生きた人にとっては正しいと信じられていた考え方である。それを、科学的に真実はひとつだと言い切ることには、割り切れなさがのこるだろう。この割り切れなさとは、言い直せば、あなたにこの痛みがわかるか、この気持ちがわかるか、ということになるだろうか。『痛みと感情のイギリス史』は、この割り切れなさに迫ろうとする。
医学は痛みを定義し、客観化しようとする。貧者が自身の痛みを訴え、救済を求める声は、他者の共感を要求するがゆえに過剰なものとなる。斬首され殉教した聖職者の処刑場面をみたものが自分の首に痛みを感じる。敬虔なプロテスタントの女性がみずからの日々の体調不良を神が与えた試練と解釈しようとする。夫の暴力、そこからの痛みを理由として離婚しようとする女性の訴えは法廷闘争の道具となる。動物にも感情はあるのかと問うた科学者たちは、生物界でのひとの特権的な位置を考えて逡巡する。痛みと感情の歴史は、これほどまでに多様であり、けっして一つの枠にはおさまらない。それが、この本の伝えるところである。
目次
無痛症の苦しみ(伊東剛史)
Ⅰ 神経―― 医学レジームによる痛みの定義(高林陽展)
Ⅱ 救済―― 一九世紀における物乞いの痛み(金澤周作)
Ⅲ 情念―― プロテスタント殉教ナラティヴと身体(那須敬)
Ⅳ 試練―― 宗教改革期における霊的病と痛み(後藤はる美)
Ⅴ 感性―― 一八世紀虐待訴訟における挑発と激昂のはざま(赤松淳子)
Ⅵ 観察―― ダーウィンとゾウの涙(伊東剛史)
ラットの共感?(後藤はる美)
痛みと感情の歴史学(伊東剛史・後藤はる美)
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