江戸時代佐賀藩の医師免許制度 /青木 歳幸(佐賀大学)

 現在、医者になるためには、医師国家資格試験に合格しなければなりません。平成30年(2018)の第113回医師国家資格試験には、10,146人が受験し、9,029人が合格して、医師になる資格を得ることができました。
 なぜ、医師になるために国家資格試験を受け、合格しなくてはならないのでしょうか。それは昭和23年(1948)に定められた医師法の第2条に「医師になろうとする者は、医師国家試験に合格し、厚生労働大臣の免許を受けなければならない 」とあるからです。
 江戸時代には、現在のような医師国家資格試験制度がなかったので、誰でも医師になることが可能でした。18世紀以降、医薬への需要と民間教育の高まりにより、医家の子弟だけでなく、武士や有力農民の子弟からも、医師になる者が増加しました。そのため、彼らの医術レベルは、さまざまでした。それでも、医師は大工などと同じく家業と捉えられていたので、藩がその養成に関与することは、ほとんどありませんでした。
 しかし、佐賀藩は、江戸時代後期に、藩領内の全医師に対し、試験に合格した医師にだけ開業免状を与える医業免札制度を生み出しましたので、それを紹介します。

 佐賀藩は、石高35万7000石の中に、小城鍋島藩(7万3000石余)、蓮池鍋島藩(5万2000石余)、鹿島鍋島藩(2万石)の3支藩を抱え、ほかに家臣らに知行地を分け与えていました。現在は長崎県である諫早地区や、長崎湾口の伊王島などの島々も、佐賀藩領でした。
 佐賀藩は18世紀の中頃以降、医学修業の藩医に対して、一定の留学費用を支援する制度をつくり、技量の高い医師の養成を推進しました。さらに、天明5年(1785)からは、藩医だけでなく、町や村で開業する領内のすべての医師を対象に、藩の学校である弘道館において医学研修を実施することとしました。
 文化3年(1806)、佐賀藩儒者の古賀穀堂は、当時の藩主に『学政管見』という提言書を出し、「学問ナクシテ名医ニナルコト覚束ナキ儀ナリ」、「近来、蘭学多ニ啓ケテソノ学ブ処ハ(中略)世界一統ノコト」として、教育を重視し、医師への学問のすすめと、蘭学は世界の学問だから学ぶべしと提言しました。これが、江戸時代後期の佐賀藩の教育方針となりました。
 佐賀藩は、穀堂の提言から28年後の天保5年(1834)に、医学専門教育のための医学寮を設立し、藩医だけでなく、町や村医師など、領内の全医師に対し、医学寮での医学研修を命じました。が、強い強制力がなかったため、十分な研修効果があがりませんでした。しかし、領内の全医師への医学教育が、佐賀藩にとって当然の伝統になっていたことに注目したいと思います。
 嘉永3年(1850)、佐賀藩は、藩士子弟の資質を向上させるために文武課業法を定め、25歳までに弘道館の課業を終えない者の親の知行を減らすこととし、子弟の学業を奨励しました。
 この学業改革は医師へも及び、佐賀藩は嘉永4年(1851)2月17日、領内全医師に対し、医師は人命を預かる大切な職業なので、未熟の間は医師として開業させない、試験により熟達したと判断できた者にだけに医学寮から免札(開業免許)を与えるという命令を出しました。これが医業免札制度です。10ヶ月ほどの準備期間を経て、同年12月から医業免札制度がスタートしました。

医業免札姓名簿
写真1.医業免札姓名簿
(佐賀県医療センター好生館所蔵)

 免札をうけた医師の名簿が『医業免札姓名簿』で、嘉永4年12月から、藩の医学校である好生館が設立される安政5年(1858)までに648人の領内医師名が記されています。
 名簿の最初には、水町昌庵・牧春堂・佐野孺仙・野口文郁ら、藩の指導的立場の藩医が記されており、彼らから松尾栄仙までの藩医26名には無試験で免札を授与したようです。
 この名簿に載る648人の医科別の内訳をみると、内科・外科などの併記を除いて、内科のみ414、外科のみ56、針医50、以下、眼科14、産科9、婦人科1、蘭科1であり、やはり内科が圧倒的に多く見られます。蘭科とはオランダ流医学をする医師ということで、外科のみが56人いることと合わせて、すでに西洋医学が広く佐賀藩領内に入っていたことがわかります。
 また648人のうち、苗字が記載されていない町医や郷医が110名もおり、幕末には、地域の村や町にも医師が多数存在するようになっていたこともうかがえます。

医業免札姓名簿の最初の頁
写真2.医業免札姓名簿の最初の頁
(佐賀県医療センター好生館所蔵)

 これは全領内医師に強制的に実施されました。が、医師になるためには藩の許可はいらないというのが一般的でしたから、強制的な免許制度には、とくに遠隔地の医師からは不満も出ました。佐賀藩支藩の蓮池藩の藩医からは、嘉永5年2月に、会業(試験のための集団研修)に出席せよと言われても、医師の数が少ないので持ち場を離れられないし、遠距離すぎるので参加できないとの伺いが出ました。このため、医学寮では、同年9月に、「かねて名元等相顕る人」は無試験、つまりすでに開業して実績のある医師へは無試験で免札を与えるとの妥協案で回答しています。移行期のことであり、従来からの医師の負担軽減を配慮したものでしょう。
 嘉永7年(1854)10月に、支藩の鹿島藩医からは、30代でも無試験で免札をいただきたいという願いが出されたのですが、医学寮からの回答は、40歳以下は試験が必要とのことで例外は認められず、無試験での免札は40歳以上とされました。
 この医業免札制度の業務は、安政5年(1858)に設立された藩の医学校好生館に移り、試験合格者には、好生館から医術開業免状が与えられました。写真3は、元治元年(1864)に、好生館が馬郡元孝に与えた開業免許状です。

医術開業免状
写真3.好生館が発行した馬郡元孝への医術開業免状
(馬郡家所蔵)

 佐賀藩は、長崎警備の必要から、西洋科学技術を先進的に取り入れる必要があり 、蘭学学習を積極的にすすめ、医学の面でも、長崎の外国人医師ポンペやボードインに学んだ医師らが、好生館教師となり、西洋医学を教えたので、好生館の医学教育は、解剖学や物理学、分析学(化学)などの西洋医学のカリキュラムでおこなわれました。さらに、文久元年(1861)に、領内の全医師に対して、西洋医学に改めないものは、医師として薬の調合を禁止する命令を出し、漢方医学を禁止するとともに、西洋医学への転換を強制しました。
 好生館や長崎などで、西洋医学と医療制度を学んだ佐賀藩医相良知安は、維新後、明治新政府に仕え、ドイツ医学の導入をすすめ、文部省医務局長となって、近代医療行政の基本的枠組みとなる『医制』の草案を起草しました。
 明治7年(1874)に公布された『医制』の第37条に、「医師ハ医学卒業ノ証書及ヒ内科・外科・眼科・産科等専門ノ科目二箇年以上実験ノ証書(中略)ヲ所持スル者ヲ検シ免状ヲ与ヘテ開業ヲ許ス、(当分)従来開業ノ医師ハ学術ノ試業ヲ要セズ(下略)」とあり、医学校の(試験を受けて合格した)卒業証書と、2年以上の実験証書を有する者に免状を与え、医師として開業を許すとしました。移行期の措置として、従来開業医師は学術試験を必要としないとしているのも、佐賀藩をモデルとしています。
 江戸時代に藩医への試験による登用制度は、尾張藩や秋田藩など少数の藩で見られましたが、それは領内の全医師への強制的な命令ではありませんでした。佐賀藩の先駆的な医業免札制度は、『医制』で発布された国家による医師への資格試験制度・開業医免許制度として、明治7年以降整備され、現代につながっています。

参考文献

青木歳幸『江戸時代の医学―名医たちの300年』(吉川弘文館、2012年)
青木歳幸『佐賀藩の医学史』(海鳥社、2019年)
青木歳幸「佐賀藩『医業免札制度』について」(佐賀大学地域学歴史文化研究センター『研究紀要』第3号、2009年、pp.36~70)


青木 歳幸 (あおき としゆき)

 佐賀大学客員研究員(前佐賀大学地域学歴史文化研究センター教授・センター長)
 信州大学人文学部史学科卒業。博士(歴史学)。長野県下高校教員、長野県教育委員会指導主事、佛教大学・信州大学・筑波大学非常勤講師等を経て、2006年から佐賀大学地域学歴史文化研究センター教授に就任し、以来、佐賀藩の洋学史・医学史を研究してきました。
 学会活動は、現在、洋学史学会評議員(前会長)、日本医史学会理事のほか、『洋学史研究事典』の編集委員長を務めています。
 主な著書は、参考文献に挙げた2著のほか、『在村蘭学の研究』(思文閣出版、1998、単著)、『『小城藩日記』にみる近世佐賀医学・洋学史料<前編>』(佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2009年、編著)、『同<後編>』(佐賀大学地域学歴史文化研究センター、2010年、編著)、『伊東玄朴』(佐賀城本丸歴史館、2014、単著)、『佐賀医人伝』(佐賀新聞社、2018、編著)、『天然痘との闘い―九州の種痘』(岩田書院、2018、編著)などです。