塚田 孝『大坂 民衆の近世史―老いと病・生業・下層社会』書籍紹介/藤本 大士(東京大学大学院)

大坂 民衆の近世史―老いと病・生業・下層社会
『大坂 民衆の近世史―老いと病・生業・下層社会』(ちくま新書・2017年)
塚田 孝【著】 価格 ¥950(本体¥880)

 生老病死に直面したとき、現代の人びとは医者や病院を頼りにします。病気のときはもちろんのこと、子どもが生まれるとき、人が亡くなるときはいつでも病院で医師の立ち会いのもと進められます。老いてからも身体機能の維持のため、医師の支援を頼りにします。今日では、生まれてから死ぬまで、医療とかかわらずにいることは難しいと言えるでしょう。では、江戸時代の人びとはどうだったのでしょうか。

 大阪市立大学で日本近世史を教える塚田 孝さんは、近著『大坂 民衆の近世史―老いと病・生業・下層社会』(ちくま新書、2017年)において、当時の人びとがいかにして病気や老いに対応していたかを明らかにしています。現代であれば、世帯主が病気や事故によって働くことができなくなった場合、行政から何らかの支援を受けることができます。しかし、江戸時代には、幕府や藩がそういった人びとの生活を支援することはきわめて限定的でした。そのため、稼ぎ手が急に病気になったとき、家族はその人物の世話をするだけでなく、生活の糧を得るため働かなくてはいけませんでした。とりわけ、蓄えをすることができない仕事をする人、あるいは、下層社会の人びとにとって、病気や老いというのは生活を一気に窮乏させてしまうものでした。

 幕府や藩は生活に苦しむ人びとの支援をほとんどおこないませんでしたが、代わりに、ある特定の人びとに対し褒賞を与えました。つまり、病気や老いによって苦しむ家族を世話しながら、家を守っていた人びとの行いを、道徳的に素晴らしいとして褒め称えたのです。このような褒賞は、松平定信の寛政改革以降全国的に多くみられるようになりますが、その目的は、人びとに何が「忠」や「孝」として賞賛されるのかを示し、秩序の維持を図ることにありました。本書から一例をみてみましょう。大坂で縫製業をおこなっていた大和屋宇兵衛は眼病を患ってしまい、その妻も大病を患ってしまいます。宇兵衛の息子・源兵衛は、当時15歳前後であったため、まだ縫製業をおこなうことが出来ません。そのため、提灯張りを覚え稼業に励みますが、それだけでは薬代をまかなうことが出来ないので、夜も懸命に働きます。源兵衛は夜に働いているときも、隙間を見つけては家に帰り、母に薬を飲ませ、懸命に看病をします。そして、寛政5年(1793年)、23歳になっていた源兵衛は、長年にわたって親孝行をしたことに対し、銀7枚の褒賞を受けたのでした(本書114頁より)。本書でとりあげられる様々な事例からわかるのは、江戸時代の人びとが病気となったときや老いたときには、その家族が中心となって看病をしていたということです。

 本書の特徴の一つは、多くの具体例を用いて、このような人びとに与えられた褒賞を示し、当時の褒賞制度がいかに運用されていたのかの実態を明らかにしている点です。その結果、本書は、蓄えをすることができない仕事をする人、あるいは、下層社会の人の生活の様子をありありと描き出すことに成功しています。そういった人びとは、文字を書いて、史料を残すことがほとんどなかったため、研究者がその歴史を描くことは非常に難しかったのですが、本書は褒賞に関する史料を用いることでその困難を乗り越えたのでした。

 本書は新書ですので、日本近世史を専門とする方だけでなく、その他の分野の研究者や一般の読者にとっても読みやすく、多くの示唆を与えてくれます。医学史の観点からみた場合、江戸時代では病気になっても医者にかかることがなかった、あるいは、できなかった人が多くいたことが本書からわかります。つまり、当時の医学史を研究するには、医師と患者の関係だけでなく、病者とその家族の関係に注目することの重要性を教えてくれるのです。こういった主題は、ほかに柳谷 慶子『江戸時代の老いと看取り』(山川出版社、2011年)が簡潔にわかりやすく取り上げています。専門書としては、新村 拓『老いと看取りの社会史』(法政大学出版局、1991年)、菅野 則子『江戸時代の孝行者——「孝義録」の世界』(吉川弘文館、1999年)、柳谷 慶子『近世の女性相続と介護』(吉川弘文館、2007年)などがありますので、関心のある方は是非それらも手に取ってみてください。

藤本 大士 (ふじもと ひろし)

 東京大学大学院総合文化研究科(科学史・科学哲学)博士課程在学。
 高校生の頃に現代の医療・社会福祉政策に関心を持ち、早稲田大学人間科学部へ進学しました。学部在学中、植民地統治における医学・科学の役割などについての授業を受け、その歴史に関心をもつようになりました。大学院進学後は、医療・社会福祉の歴史について研究しています。修士論文では、江戸時代に幕府・藩が民衆に対してどういった医療政策をおこなっていたかについて分析しました。現在執筆中の博士論文では、近代日本において、キリスト教の宣教師でありながら医師として活躍したアメリカ人医療宣教師に注目し、彼らの活動の背景にあったものの分析を試みています。