120年前のアメリカ農村部の種痘政策——分権的制度と情報化の文脈で /平体 由美(東洋英和女学院大学)

 天然痘をはじめとする伝染病がもたらす影響や、天然痘を予防する種痘を歴史的にどう理解するかという課題は、近年の医療史の大きなテーマとなっています。新しい薬が開発された、病気が防がれた、町は救われた、という成功物語にはとどまらない「意味」を見出す試みが、広く行われています。ここでは、20世紀初頭のアメリカ合衆国ノースカロライナ州で、種痘実施にどのような問題があったのかを解説していきます。そこから、当時のアメリカにおける公衆衛生官が置かれた環境を浮かび上がらせていきます。

Vaccination kit
Vaccination kit
中央は種痘接種に使われた象牙針、右は皮膚に傷をつけるための針さまざま、左は接種痕を保護するためのマスク。1890-1900年代。
Wooden Box of Ivory Points Used for Smallpox Vaccination, National Museum of American History, Smithsonian Institute https://www.si.edu/object/nmah_722405

 アメリカ合衆国にジェンナー式の種痘が伝えられたのは、1800年のことでした。ハーヴァード大学のベンジャミン・ウォーターハウスが、イギリスから痘苗を取り寄せ、家族に接種したのが最初とされています。その後、大統領ジェファソンをはじめとして、何人もの政治家が、種痘を試しました。しかし、種痘の接種はあくまで個人の選択に任され、国家レベルでの接種勧奨や強制は行われませんでした。これは、1810年代に接種勧奨を始めたデンマークやノルウェイ、ロシアなどとは、大きく異なっています。国家レベルでの接種が行われなかったのは、それが国ではなく州や地方自治体(市や郡など)の役割とされていたためです。

 アメリカで最初に種痘接種を義務化したのはマサチューセッツ州でした。マサチューセッツ州は、種痘だけでなく、義務教育の導入や労働法の制定なども早い段階で実現させてきた、改革や規制・介入のアメリカにおける先導者という特徴があります。1855年に、就学児童や刑務所収監者、工場労働者などに対する接種の義務化が決定されました。それに続いて、ニューヨークやフィラデルフィアなど東部の港湾都市や内陸の都市でも、接種が広く行われるようになりました。しかし、これは大都市に限った話であり、国内ではたびたび天然痘が大流行しました。鉄道や航路を通して人が移動することで、農村地域や小都市から天然痘が持ち込まれたためです。

 集権的な国であれば、ここで政府が全国一斉に種痘を義務化するという決定を下すでしょう。しかし先にも述べたように、アメリカでは州が公衆衛生を担当することになっています。そのため、州や自治体によって対応がまちまちでした。特に小都市が点在する農村地帯では対応が遅れました。それに加えて、20世紀初頭はまだ、医師の資格や薬品の品質管理に統一的な基準が存在しませんでした。そのため、地域住民に種痘を広めたい公衆衛生官は、さまざまな問題に対処しなければなりませんでした。

 天然痘と種痘に関して、農村地帯がひろがるノースカロライナ州公衆衛生官が直面した問題には、次のようなものがあります。第一に、医者の質のばらつきが大きかったことです。実際、天然痘と他の病気(水痘など)との区別のつかない医者がおり、彼らは種痘接種の呼びかけを無視しました。また、種痘の管理方法が不適切だったり、接種技術に極端な巧拙があったりしたこともわかっています。

 これと関連して第二に、民衆の間に種痘への警戒感がありました。管理の悪い種痘を不器用に接種されることがありえるのです。実際のところ、天然痘予防に効かないことも、逆に接種部分が何ヶ月も腫れあがることもありました。そのような情報が口コミで伝わったため、学校での接種を予定すると、親が子供を学校から引き上げさせたり、接種に訪れた医者に汚水を浴びせかけたりというトラブルが発生しました。マサチューセッツやニューヨークとは異なり組織的な反種痘運動は起きませんでしたが、民衆は種痘を積極的に受け入れたわけではありませんでした。

 第三に、これらの問題に対して政治がなかなか動かなかったことです。公衆衛生官はまず、医者の質を高めるため医師免許の基準引き上げを提案し、かろうじて法律化に成功しましたが、州最高裁は「患者の選択権」をもとに、それを無効化しました。また、州全体で学童に対する種痘義務化を実現すべきという働きかけを行いましたが、議会は市や郡で行うべきとの姿勢を崩しませんでした。ノースカロライナ州は、マサチューセッツ州とはかなり異なっていたのです。

Vaccination pins
Vaccination pins
接種をアピールするためのバッジ。当時、種痘製造の大手であったマルフォード社のもの。1890年代。
Anti-vaccination in America, National Museum of American History, Smithsonian Institute http://americanhistory.si.edu/blog/anti-vaccination-america

 20世紀初頭は新聞や雑誌が多く発行され、他地域の情報がそれほどのタイムラグなしに入ってくるようになった時代です。ノースカロライナの公衆衛生官は、マサチューセッツがどのように種痘を進めているのか知っていました。おそらくは、政治の「動かなさ」に臍を噛んでいたことでしょう。一方、民衆もマサチューセッツやイギリスでの反種痘運動を知っていました。「危険」な種痘が義務化されるのを食い止めたいと考えた人々もいました。情報は、推進派と反対派双方に、それぞれ指針を与えていたのです。

 公衆衛生官も民衆も、そして製薬業界と医者と政治家も、分権的政治制度とデモクラシーの文脈の中で、妥当な医療・公衆衛生制度の構築を模索していたのが20世紀初頭のアメリカでした。それは現在の医療保険制度改革議論や、反ワクチン運動の「かたち」にもつながっています。

参考文献

The Antibody Initiative: Eradicating Smallpox, National Museum of American History, Smithsonian Institute. https://www.si.edu/spotlight/antibody-initiative/smallpox
James Colgrove, State of Immunity: The Politics of Vaccination in Twentieth-Century America (Berkeley: University of California Press, 2006).
Karen L. Walloch, The Antivaccine Heresy: Jacobson v. Massachusetts and the Troubled History of Compulsory Vaccination in the United States (Rochester, NY: University of Rochester Press, 2015)
Michael Willrich, Pox: An American History (New York: Penguin Books, 2011)
平体 由美「農村住民の健康意識改革に向けて――二〇世紀初頭南部のコミュニティ・ヘルスワークとその限界」『医療化するアメリカ』彩流社、2017年。
平体 由美「20世紀転換期アメリカ合衆国ノースカロライナ州における天然痘流行と公衆衛生インフラストラクチャー構築の試み:より安全な種痘のための基盤整備にむけて」『人文・社会科学論集』(東洋英和女学院大学)36号、2019年。

 

平体 由美 (ひらたい ゆみ)

 東洋英和女学院大学国際社会学部教授。
 国際基督教大学教養学部卒業・国際基督教大学大学院行政学研究科修了。博士(学術)。アメリカ政治史を専攻し、特に連邦制について研究をしてきました。国家単位で実施したほうが都合がよいはずなのに、なぜアメリカ合衆国は州単位での実施にこだわるのか、という問いから離れられず、その流れから公衆衛生史にも関心を寄せるようになりました。現在は軍隊と公衆衛生についても調査をしています。大学では定番のアメリカ史、現代アメリカ論の他、アメリカ医療史を講義することもあります。