医者として、文学者として――中原呉郎とハンセン病療養所の同人作家たち /佐藤 健太

 中原呉郎というひとをご存知でしょうか? 『山羊の歌』『在りし日の歌』などで著名な詩人・中原中也の弟です。
 中原呉郎は1916年に山口県吉敷郡(現在の山口県山口市)に生まれました。中原家は代々開業医の家系で彼は五男でした。1938年に長崎医科大学に入学し、1942年に医師免許証を取得します。2ヶ月間見習士官をつとめたあと陸軍軍医中尉としてキャリアをスタートし、1975年に亡くなるまでの間、長崎大学風土病研究所(現在の熱帯医学研究所)で細菌学を学び、日本郵船で船医としてさまざまな国をめぐり、無医村の診療所などに勤務しました。
寮舎地区と富士
寮舎地区と富士 (撮影 黒崎彰)

 中原呉郎はこの間、2ヶ所の国立ハンセン病療養所に勤務した時期がありました。多磨全生園(東京都)には1959年5月から1961年6月まで、駿河療養所(静岡県)には1963年1月から2年間と、いずれも短い期間でしたが入所者から慕われていました。駿河療養所入所者の小泉孝之は追悼文でこのように書いています。

「通俗的に彼を評するなら、医師らしくない医師、それは角張りがないということである。知らず知らず身につく患者に対する優位性がハ氏病の場合、偏見差別につながる恐れがあるが、彼は患者を常に対等の人格として扱った」

(小泉孝之「中原呉郎さんのことども」『中原呉郎追悼集』所収)

 入所者や職員から「呉郎ちゃん先生」と呼ばれた彼は、はにかみ屋で大酒飲みでしたが、深酒した翌日も絶対に休診することはありませんでした。酒を飲むとはにかみ屋は姿を消し饒舌になったといいます。繊細で傷つきやすく、妻のふさえは「中原は“悲哀の国”から生まれてきたんでしょうね」と評しました。呉郎と入所者の間を結びつけたのは彼のこうした人柄だけでなく、呉郎が生涯とらわれていた文学という営みでした。

「私は青年期も早い頃から文学に志したのであった。母親は、高校の文科に入るというのを、医者の家の跡とりがなくては困るからと、私を無理に理科に入れたものであった。爾来私の胸には文学が往き来した。私はそれをふり払い落とそうとしながら、文学という生き物は、私の後をひそかに、執拗につけて来るのであった。生活のめどがついたら、私は医者をやめて、きっと自分が好きなことをして見たい。それが私の誰にも言えない夢であり、希望のありどころであった」

(中原呉郎「四日間」中原呉郎『海の旅路 中也・山頭火のこと他』所収)

駿河療養所内の林駿河療養所内の林 (撮影 黒崎彰)

 呉郎は肋膜炎を病んだ山口中学校時代の2年間で、日本近代文学の代表的な作品を読みふけりました。文学熱は高じて中学校在校時に詩誌『詩園』を仲間たちと創刊し、自らも詩を書き、友人とともに実兄である中也の年譜を発表しています。大学時代には俳人の種田山頭火に心酔し親交を深め、初の詩集『煙の歌』を刊行しています。しかしこの詩集には苦い思いを持っていたようで、のちに友人に「もし、今でも持っているなら焼き捨ててくれ」と言ったそうです。
 詩人として名高い中也の実弟というあまりに大きな文学的背景を負った彼は、早々に詩作から離れて、中也および中原一族、山頭火に関する評論やエッセイ、小説などを書くようになります。中也や山頭火については「故郷の中原中也」「三代の歌」「俳人山頭火のこと他」などにまとめられ、遺作集『海の旅路 中也・山頭火のこと他』に収録されています。また蘭学史をテーマとした小説を書くべく資料集めにいそしんだ時期もあり、その成果は「桃庵覚書」「紫陽花」などに結実しました。シーボルトを題材とした「紫陽花」では、1958年に第54回『サンデー毎日』大衆文芸に入選を果たしています。
 中原呉郎が2年間を過ごした駿河療養所では、1950年頃、文学好きの入所者たちによって実作に励む駿河創作会が結成されています。彼らは季刊の雑誌『芙蓉』(駿河療養所慰安会発行)にさかんに投稿していました。しかし資金難のため『芙蓉』が休刊してしまい、主要な作品発表媒体を失ってしまいます。そんな彼らに同人誌をつくろうと提案したのは、当時駿河の医官をつとめていた中原呉郎でした。文学仲間である呉郎の呼びかけにより、1963年に同人誌『山椒』が発行されます。創刊時からの同人・上村真治はつぎのように回想しています。

「療養所も一般社会も、人に知られるような作家を出すのは、下手であろうと、間違っておろうと、作家人口が多く、密度が濃くなければ、立派な作家は生れない、と云われた。僕はそこで、例え下手であろうと、一人でも多くの作家を作る努力をしてみた。が、今尚作家が出来ぬのは残念である。それでも同人誌「山椒」が32号まで出版できたのは、先生の教訓によるものであろう」

(上村真治「僕の見た呉郎ちゃん先生」『山椒』第32号所収)

 呉郎も創刊号からいくつも作品を投稿しています。呉郎と同人たちは互いに作品評を交わし、ともに酒を飲んでは文学談義を交わす、医者と入所者という関係であると同時に、文学によって結ばれた仲間でした。しかし、山頭火の生き方に多大な影響を受け、「私にとって旅は命であった」(中原呉郎「旅人とわが名呼ばれん」前掲『海の旅路』所収)とまで言い切る呉郎は一つ所に落ち着くことはできず、1965年1月に駿河を去ります。『山椒』の同人仲間だった小泉孝之は、駿河療養所で再度勤めてほしいと説得するために、数回にわたって西所沢の呉郎宅を訪ねています。小泉の追悼文によれば、駿河へ戻る約束を交わしたそうですが、それはかなえられぬまま呉郎は1975年に肝硬変で亡くなってしまいます。そして『山椒』は1977年9月、第35号で刊行を終えました。
寮舎地区と富士2寮舎地区と富士2 (撮影 黒崎彰)

 中原呉郎も駿河療養所の同人たちも、作家として大成することは叶いませんでした。文学にとらわれてしまった彼らは、ハンセン病療養所という場所で医者・入所者という異なる立場で出会い、それを越えてともに文学に邁進しました。捨てようにも捨てきれなかった文学への熱意が、わずかな間とはいえ結晶したのが同人誌『山椒』だったと言えます。

参考文献
中原呉郎『海の旅路 中也・山頭火のこと他』(昭和出版、1976年)
『中原呉郎追悼集』(中原ふさえ、1976年)
『山椒』第32号(駿河創作会山椒同人、1975年)