読みながら考える―『麦ばあの島』にみるハンセン病と家族関係、そして教材としての可能性<後編> /田中キャサリン(大手前大学)

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学生たち
岡山県の長島愛生園を訪れた大手前大学の学生たち(2017年5月)

 前編では、『麦ばあの島』の物語としての複雑さや豊かさについて見てきました。後編では、この作品で、冒頭に予期せぬ妊娠と別れにさらされた、まだ分別もつかない大学生の聡子が登場していることに着目してみようと思います。
 私は、いくつかの授業の中でこの本を教材として使ってきましたが、学生は一様に積極的で良い反応を示しました。ボランティア団体を作って英語に翻訳し、より多くの読者が読めるようにすることを求める学生の声すらあります。

 学生たちは、このマンガの中でハンセン病と交差するさまざまな問題が提示されることが重要なポイントであり、それによって、こうした問題に複数の視点からアプローチすることが可能になると認識しています。岡山県にあるハンセン病療養所、長島愛生園を訪問したことがある学生は、この漫画は長島での語り部との交流の際に聞いた話に加えて「新たな情報と体験」を提供してくれると言います。また別の学生は、ハンセン病文学を読み、愛生園を訪れ、そして入所者と直接話をしたことがあるのですが、「様々な立場の人たちの物語を一つに落とし込むということを、この漫画は可能にしていました。」と言いました。もう一人の学生は、この漫画が、訴訟や男性本位の経験に重点を置いているマスメディアの記事に対し、女性の経験を描く重要な代替手段であることに気づいたといいます。
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左)長島愛生園にて、愛生園の元自治会長からお話を聞く学生たち(2017年5月)
右)裳掛地区フィールドワークで住民の話を聞く学生たち(2018年8月)

 学生たちは、この漫画の芸術性ときめ細かなハンセン病の説明の両方において、細部への配慮が施されていることを高く評価しました。病気への知識のない学生達は、日本の歴史についてそれまで知らなかった多くのことを学び、他方である程度背景的知識を持っていた学生達は、物語を進める上で慎重に構想が練られていることを感じ取りました。学生たちにとって、この漫画の中の描写は、写実的で物語の現実味を余さず描きつつも、グロテスクにならないよう読者に想像力を膨らませる余裕を残しているのです。ある学生は、物語とイメージが、これまで漫画では伝えられなかったような調和を生み、これまでにない完全な作品を作り出したと述べています。
 また、学生達は日常生活の繊細な描写と、匂いや季節、そして生活のあらゆる音(例えば、療養所の中で盲目の患者の行動を誘導するために流されている音楽、全編にわたって響いているさまざまな音楽、子供たちに家路につくよう知らせる夕方の町内放送など)を高く評価しています。こうした細部の描写は、物語をより親しみやすく、リアルに感じさせる効果を生んでいます。

 まとめると、学生達は総じて、この漫画について主に二つの特徴を高く評価しています。まず、彼らは物語全般においての家族の描かれ方が良いと言います。麦ばあと生家の家族との関係がハンセン病によってどのように変化したのか。麦ばあとその夫、二人の姉妹、姉妹と麦ばあと夫の関係。そしてもちろん、物語を通じて出てくる家族と失われた子供について、学生たちは読み解こうとします。
 次に、学生が圧倒的に支持したのが、物語の中心にいるのが女性であり、その体験を中心にしているという点です。男子学生の中には、当初理解が難しかったという人もいましたが、多くの人にとって人権問題だけでなく性別の問題も理解するよい素材になっています。特に男性の場合、女性の性格や生殖や家族の問題に焦点を当てることは、重要な学習経験となり得るでしょう。男子学生の一人は次のように述べています。「漫画の中には、男性の問題についての話もありました。しかし、女性についてのこのような問題について、僕は以前はまったく考慮することもありませんでした。これは僕にとって重要な漫画になりました」
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左)愛生園にて、長島と対岸の裳掛地区の歴史をまとめた『邑久町史』の翻訳作業を行う学生たち(2018年8月)
右)長島愛生園にて、ウェブサイトと証言の翻訳作業を行う学生たちとアドバイスする長島自治会長(2016年8月)

 『麦ばあの島』は、入所者としての経験から擬似家族の形成にいたるまでの物語の構造を通して、ハンセン病者の経験を、個人の特殊な体験談に止めるのではなく、日本の文化的・歴史的な物語の一部にするという役割を果たしています。『麦ばあの島』は、ハンセン病を患い、療養所での生活を余儀なくされた当事者の経験を通じて、新たな視点からハンセン病問題を見直し、他の社会問題と関連づけています。その意味では、このような物語は、ハンセン病の経験を後世に残す試みであり、ハンセン病の個人的経験を人権問題や家族の問題などのより大きな問題系に組み込む一助となっています。 この漫画は、入所者の経験の多様性を尊重しつつ、個々の経験とナショナルな物語を結びつける、ハンセン病の新たな歴史の一部となる重要な作品です。学生の言葉を借りるとすれば、私たち皆が読むべき一冊なのではないでしょうか。

参考文献

荒井裕樹『隔離の文学 : ハンセン病療養所の自己表現史 』書肆アルス、2011年
蘭由岐子 『「病いの経験」を聞き取る:ハンセン病者のライフヒストリー』[新版] 生活書院、2017年
河瀨直美 (監督) 『あん』2016年
ドリアン助川『あん』ポプラ社、2015年
廣川 和花 『近代日本のハンセン病問題と地域社会 』大阪大学出版会、2011年
古林海月 (著), 蘭由岐子 (監修) 『麦ばあの島』すいれん舎、2017年(全4巻)
Sukegawa Durian, Sweet Bean Paste. Translated by Allison Watts. Oneworld Publications, 2017.

田中 キャサリン (たなか キャサリン)

田中キャサリン
 大手前大学総合文化学部講師
 2012年にシカゴ大学にて博士号(日本文学)を取得した後、2014年に大手前大学の講師になりました。ハンセン病文学を専攻し、特にハンセン病文学におけるコミュニティーの感覚について研究してきました。療養所における「マイノリティ」の経験に興味があり、今までに女性の描写や子供の経験についての論文を発表してきました。現在、ハンセン病文学についての書籍「Through the Hospital Gates: Community in Japanese Hansen’s Disease Literature」の出版準備を進めています。