医の資料から広がる世界―広島大学医学資料館『病理学者、原子野をゆく』展から―/久保田 明子(広島大学)

 私は、広島大学原爆放射線医科学研究所附属被ばく資料調査解析部という、長い名前の部署で、研究のほか、アーキビストとしての役割も持っている。アーキビストとは、後世に残すべき記録の評価選別、保存や整理、公開や閲覧にかかわる専門職である。今の職場では、原爆とそれに関する医学についての資料を取り扱っている。
 今日、カンボジア出身の映画監督が私の研究室にやってきた。彼は、クメール・ルージュによる虐殺で愛する家族を失いながらも生き抜いた。今は日本の原爆に関心がある。
ポスター
『病理学者、原子野をゆく』展 ポスター

 彼は、研究室のドアに貼ってあった“Pathologist in Atomic Field”と題されたポスターに目を留めた。私は、これは今年行った、広島大学病理学教室初代教授であった玉川忠太の資料展示のものだと説明した。玉川は1945年8月から広島の「原子野」(原子爆弾によって焦土と化した土地)を走り回って、医学部教員として広島大学医学部の再建に力を尽くし(医学部は8月5日に開校したばかりだった)、病理学者として爆心地に近い広島逓信病院で初期の貴重な急性症状19例の病理解剖を行った。そして1970年、「おれは、三日たったら死ぬからな、ふん」と言って、本当に3日後の10月30日に亡くなった人物である。映画監督は強いまなざしで真剣に説明を聞いてくれた。彼の心には何かが去来したのだろうか。私の話の後、彼は「これを是非カンボジアで展示しませんか」と言った。

 “Pathologist in Atomic Field”、日本語のタイトルは『病理学者、原子野をゆく』で、今年の8月から9月にかけて広島大学医学部の医学資料館で開催した。病理学者とは、病の原因やメカニズムを解剖や生物学的検査によって探求する医学研究者のことである。ちなみに、病気ではない健康な人間の体の仕組みを研究するのは生理学者と呼ばれる。

 この展示に至ったきっかけは、2017年にたまたま調査させていただいた玉川忠太資料が、被爆者の剖検(研究のための病理解剖)を行ったときに作成された記録の原本で、アメリカにも接収されずに大切に保管され続けた貴重なものだと気が付き、所蔵者である広島大学大学院医歯薬保健学研究科分子病理学研究室の安井弥教授のご許可を頂いて資料のアーカイブズ的整備を行わせていただいたことだった。蜂谷道彦の『ヒロシマ日記』に描かれる玉川の描写と合わせると(蜂谷は玉川の岡山大学の後輩で、当時広島逓信病院の院長。この日記は蜂谷が8月6日のその日からの日々を書き綴った作品)、その、シミも残る古い剖検記録の本物の持つ力に圧倒された。この資料を中心に、私の所属機関で管理している玉川の解剖によって作られた病理標本や玉川の映る映像資料などと併せて展示した。

 私自身、玉川本人に惹かれた。敗終戦間もない1945年の夏、彼は、解剖の許可を出さない県庁に「ヒデー野郎だ、馬鹿じゃ、馬鹿にもほどがある 」と吠え(8月27日)、自力で掘立小屋の解剖室を建て(8月28日)、無許可で解剖を始めた(8月29日)。原爆症研究の合間には県内各地の病院を回り、医学部の立て直しにも奔走しながら、空襲にあった岡山の実家を心配し、仲間も気遣った。最初の病理解剖を翌日に控えた8月28日の晩、逓信病院での夕食時、「おまえらは贅沢者じゃお前らは贅沢だ、贅沢すぎる、こんなに食べてよいのか」などと言って入院する被爆者を笑わせた。社会の大きな危機に直面したときの科学者、医学者の在り方として、すごい、と素直に思った。そんなことが少しでも伝えられれば、と考えた。少しまじめに言えば、現在検討すべき、緊急被ばく医療、大災害医療、リスクコミュニケーションなどの問題へのヒントになるとも思った。

 企画者の能力が足りない割に、展示は温かく迎えられた。「玉川先生を知っています」という方も来て、「よくぞ取り上げてくれた」と言ってくださった。展示した8歳の子どもの剖検記録に思いをはせる方もいた。会場が大学病院に隣接していることもあって、地元の一般の方も多く来てくださった。一方、医学部の機関であることもあって、医学部学生や他大学の医学部教授など専門家や関係者も来てくださった。そのため、「内容が少し難しい」という感想と「もう少し医学の専門的な展示をして欲しい」という要望がありがたくも悩ましかった。ただ、地元で展示を行う意義、医学部の医学資料館で行う意味を考えるうえで大変勉強になった。

英語版パンフレット 英語版パンフレット
英語版パンフレット 英語版パンフレット

『病理学者、原子野をゆく』展 英語版パンフレット 【PDF版を表示する】

 英語のポスターやパンフレットは初めての試みだった。これも、広島在住のアメリカ人研究者とのメールのやり取りの中で「展示に行くねー!」と言っていただいたために慌てて、「じゃあ、彼に少しでもわかりやすくしないと!」と思い付いたからであったが、これが実は大切であった。医学部の留学生、外国からの研修医、少しではあったが外国人観光客など、思った以上の多くの方が持ち帰ってくださった。今日いらっしゃったカンボジア人の映画監督も、これに目を留めた。

 展示活動は、アーキビストの本務ではないかもしれない。しかし、展示を企画し運営することでとても多くの良い経験ができたし、今後の仕事上のたくさんのヒントももらった。喜んで下さった皆さんもいらっしゃったが、私が一番幸せ者だったのかもしれない。資料を守りつつ、時々その本物だけが持つ力に任せて資料原本を皆さんにご覧いただき(実はここも気を付けた。主義主張や意図的な考えは排除した。本物さえあれば、まずはそれで十分なのだ)、皆さんとともに「来し方」の記憶を共有することは、単に原爆の体験の継承の問題だけでなく、色々な意味でとても大切なように思う。

 とはいえ、課題は山積である。まず、クメール語のパンフレット作成のハードルは高過ぎるなあ、うーん、と、これはまた別の被爆者の白血病の資料を整理しながらつれづれ考え更ける夜であった。

久保田 明子 (くぼた あきこ)

 東京出身。広島大学原爆放射線医科学研究所附属被ばく資料調査解析部助教。
 学習院大学アーカイブズ学専攻で社会人学生として博士後期課程で学ぶ。それまでは東京都内で高等学校の非常勤講師を務めた。2015年7月より現職。研究テーマはアーカイブズ学で、特に科学史研究資料について取り組んでいる。出会いは寄生虫(感染症)研究の資料で、その後、ご縁があって、名古屋大学や京都大学で物理学研究資料(関戸弥太郎資料(宇宙線研究資料)、荒勝文策関連資料)などの調査や展示活動などにも参加。荒勝文策関連資料については政池明『荒勝文策と原子核物理学の黎明』(京都大学学術出版会、2018年)に「「キツネの足跡」を追いかける:京都大学所蔵荒勝文策関連資料について」を寄せた。現在は、原爆被災に関する物理や医学などの調査や研究の資料、また日本学術会議に関する資料の調査研究(科学研究費 挑戦的研究(開拓)「日本の学術体制史研究 ―研究基盤となる日本学術会議資料整備と研究環境構築の検討―」課題番号:17H06183、研究代表:久保田明子))を進めている。

■広島大学原爆放射線医科学研究所附属被ばく資料調査解析部